「大切な人の自死」を本にした意味。随想録『逝ってしまった君へ』の反響から見つけた、悲しみとの向き合い方【あさのますみ】
人生の谷間を照らす一つの方法——それは「孤独を打ち明ける」ということ
私は、自身の経験を話してくれた人たちの、表情一つひとつを覚えている。忘れられない、と言った方が正しいかも知れない。その人が選んだ言葉や、声のトーンまでもが、消えずにずっと残っている。会話を何度も反芻した人もいたし、相手が置かれた厳しすぎる現状になにも言葉が出ず、「あのときなんて言えばよかったんだろう」と、未だに答えが出ない人もいる。自分が味わった喪失感を、まざまざと思い出すようなやり取りもあったし、あまりの悲しみの深さ、やるせなさに、気持ちが塞ぐこともあった。
けれど、それでも私は、『逝ってしまった君へ』を形にしてよかったと思っている。
いろいろな人と交わした、決して明るいとは言えない言葉の数々が、気づくと私の体をほのかに温めているのだ。ここから先の人生を照らす、小さな光のようになっているのだ。不謹慎だと言われるだろうか。でも、これが偽らざる本心だ。
なぜか。それは私が、手を伸ばせば届くところにまだ開けていない扉があると、知ったからだと思う。
ふり返ると私は、今までの人生で二度、深い孤独を味わった。
一度目は、実家の貧しさに悩んでいた、学生時代。
洋服も、学校で必要な教材も買えない家庭環境が恥ずかしくて、いつも小さくなっていた。そのことを周囲にひた隠しにし、孤独を深めていった私を救ったのは、友人――逝ってしまった「君」だった。私は「君」にだけ、本当のことを打ち明けた。「君」もまた、自身が抱える悩みを私には話してくれた。そうやって心を開くうちに、「君」は私にとって、特別な存在になっていったのだ。
二度目の孤独は、そんな特別な友人を、突然自死で失ったとき。
苦しかった。途方に暮れた。私は、一度目に孤独を感じたときと同じように、口をつぐんだ。きっと話したって伝わらない、と思った。
けれど。長く悩んだあと、自分の身に起きたことをありていに綴ろうと決めた。かつて「君」に孤独を打ち明けたときのように、ありのままをまるごと伝えた。すると多くの人が、
「実は自分も」
と、心のうちを見せてくれた。中には、長いこと知り合いだったのに、はじめてそういう話を打ち明けてくれた人もいた。私たちは、お互いに孤独を感じていたのに、それを抱え込んだことで、すぐ隣にある痛みにも気づかずにいたのだ。
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SNS上で大反響のエッセイ、待望の書籍化
「note」での掲載が大反響を呼んだ壮絶なノンフィクション、待望の書籍化。
2019年1月。私は、古い友人のひとりを失った。
友人は突然、自らの意思で死を選んだのだ。
彼は私の大切な友人でもあり、私のはじめての恋人でもあった__
声優・浅野真澄が体験した、大切な人の「自死」。
大切な人を失って初めてわかる、大きな悲しみと日々の「気づき」。
遺書にあった自らに向けたメッセージ、告別式、初めての「遺品整理ハイ」…そして「君」を失った悲しみの中で見つけた一つの光。
『誤解を恐れずに言ってしまうけど、君を失って、私はひとつ、大きなものを得ました。それは、自分を自分のままでいいと思える強さです』
『たった一つのものさしで自分を測ることに、意味なんてない』
『君がそこにいてくれることが、すべてでした。君の存在そのもので、私はどこまでも満ち足りた気持ちになったのです』
あまりにも突然で悲しい出来事を経た「遺された人々」のその想いを、逝ってしまった「君」への手紙の形で綴ります。
日々悲しみの中にいるあなたにこそ読んでほしい、大切な人へ向けた祈りに満ちたノンフィクション随想録。